
「ん〜、肉ジジ肉ババ(相変わらずヒドい呼び方をする奴だな)と一緒に映画かぁ〜」などと、最初はそれほど乗り気もなさそうだった娘ですが、「あらら、今話題の『崖の上のポニョ』なんだけどな〜」と追加誘惑してみたら、あっと言う間に身支度を整え、合計101歳の初老の夫婦(かみさんは「初老」という言葉を嫌い、「せめて『中年』と言いなさい」と怒ります)にくっついてきたのでした。
人間になりたくなってしまった ♪ポ〜ニョ ポ〜ニョポニョ さかなの子♪ とソースケ君という5歳の男の子との交流を(表面的には)描いた映画ですので、多くの座席はこども連れの母ちゃん&父ちゃん&ジジババちゃんたちで埋まっていたのですが、ま、何だかんだありまして ♪ポ〜ニョ ポ〜ニョポニョ さかなの子♪ が(表面的には)めでたく5歳の女の子になれました〜!という(表面的には)ハッピーなシーンで終わった後、期しくも僕とかみさんは顔を見合わせ、「この映画、難しくない?」「こども向けなのは映像レベルだけなんじゃないの?」などと唸り込んでしまいました。
さすがに「世界のミヤザキ監督」なのです。当たり前ですが、タダ者ではないのです。
『となりのトトロ』に「アニミズム」という幼児独特の「こころの働き」を描き出し、『千と千尋の神隠し』では湯屋に集まるドロドロの怪物湯治客を使い、人間たちの自然/環境破壊を痛烈に批判し、『天空の城ラピュタ』では一本の木に滅ぼされる人間の科学文明を予言して見せた(まだまだありますけど)宮崎駿監督は、今回の作品『崖の上のポニョ』で私たちに何を訴えかけようとしているのか。映画を観終わった後ずっと、この初老(笑)の夫婦は静かに考え合っているのです。
「人魚姫」伝説、「観音様」の御神渡り、デボン紀の「古代魚」たち、「時化」や「津波」など、「ポニョって可愛いね〜 ♪ポ〜ニョ ポ〜ニョポニョ さかなの子ぉ〜♪」レベルの精神発達段階にあるこどもたちには絶対に理解できない、作者から仕掛けられた謎や意図についての考察は、それこそ私たち一人ひとりが行えばいい事だと思うのですが、問題なのはアヤボ(21歳)なのでした。
「えっ、そんなに難しい映画だったの?」「映像だけで楽しんでちゃいけないの?」「う〜ん、理系には(ちなみに彼女は薬学部の学生です)ちょっとできない発想だねぇ」「ジジもババも考え過ぎなんじゃないの?」などと、初老の夫婦からの「どう思うよ?」という問いかけに、真剣に向かい合ってくれないのです(苦笑)。
いえいえ、別にこの状況を「親子間の価値観や意見の対立」、すわ「ジェネレーションギャップだ!」などと大げさに騒ぎ立てる気はありません。『崖の上のポニョ』を単純に「面白い」や「可愛い」で終わらせるかどうかは、おそらく「人生経験=思考活動=学習体験」の量や質によるのだと思います。21歳では到底、「初老の夫婦」域にまで到達できているはずはありません(逆に、僕らと同じだったら不気味な21歳です)。
「ふ〜ん、そういう観方もあるんだ〜」「文系の夫婦は面白い事を考えるんだねぇ」という娘のコトバに、少し嬉しくなってしまった肉ジジ&肉ババなのでした。ただ単純な時間つぶし的「面白〜い!」で終わらず、親子で共通の「疑問(例えば、『リサと観音様は何を話していたんだろう?』とか)を持てたからです。そして、それをネタに暫く、「あ〜でもない こ〜でもない」といった話ができるからです。
ふり返るとわが家では、こどもたちが幼い頃から、「一発勝負」的な「その場限り」のレジャーはあまりしてこなかったように思います。気のせいかも知れませんけど・・・
アヤボが笑いながら歌っています。 ♪ポ〜ニョ ポ〜ニョポニョ さかなの子♪ ♪プ〜ニョ プ〜ニョプニョ おやじ腹ぁ♪ これでいいのだ、アヤボの父なのだ。






20代前半のその母ちゃんは、赤色のマジックでわが子の腹に「死ね」「ブタ」などと書き、30歳前の父ちゃんは、子どもの足を持って逆さまにし、「バンジージャンプだ!」などと言っては、何度となく頭から床に落としていた。こいつらはまた、間違いなく自分たちの子どもなのに、「生まれてきてほしくなかった」と思っていた・・・
「娘に『カレシ』ができたらしい」などと耳にしようものなら、けっこう本気でハラハラドキドキしてしまう父親が多いようだ。
さだ まさし さんの(確か)「まほろば」という曲の中に、「遠い明日しか見えない僕と 足元の泥濘(ぬかるみ)を気に病む君と」という一節があって、これってもしかすると、そのまんま僕とかみさんの間での「子どもとの接し方の違い」だったんじゃないか?なんて、考えるわけです。もち論、「遠い明日」ばかり見ているのと、「足元の泥濘」を気にしてばかりいるのと、どちらが正しいとか誤っているとかという問題ではなく、言わば、遠視眼的&近視眼的視点の両方がミックスされて初めて、僕たちはキチンと前を向いて歩けるんじゃないか、つまり、「子育て」についても偏りや行き過ぎのないそれができるんじゃないかと思うのです。
多くの父母(親)とかオトナは、ある意味で「卑怯者」です。「自分自身ではできない」事ばかり、子どもたちに強要しようとします。
「(息子と娘に)習わせてよかったな〜」と心底思えるのは、義弟が史上最年少の師範をしている「日本拳法」です。二人とも、小学生(息子は幼稚園児)から中学生にかけての毎日曜日(夕方)を、裾野市民体育館柔道場の畳の上で過ごしました。それぞれ、サッカー・ミニバスケットボール・本格的バスケットボール・吹奏楽などのスポーツ少年団活動や部活動ともかなり濃密に関わりましたが、彼らの人間としての基礎形成に最も大きな影響を与えたのは、やはりこの「日本拳法」だったと思います。
最近、「息子は少年院に入っていまして、娘は『ヤク中』なんですよ…」などと深刻そうに呟いては、人を驚かして密かに(でも、大いに)楽しんでいます。この言葉そのものに間違いはありません。ですが、もう少しキチンと説明しないと明らかに誤解を受けてしまいます。
「子は鎹(かすがい)」という言葉の意味が、最近やっと、わかってきたような気がします。要するに 子どもがそこにいてくれると、人と人とはけっこう結びつきやすいという事なのでしょう。
信じてもらえない事が多のですが(若く見えるから?)、23歳の息子と20歳の娘がいます。それぞれ、犯罪心理学と薬学を学ぶために家を離れ、茨城県つくば市と東京都清瀬市にて一人暮らしをしています。
実際に子どもは、周囲にいる最も親しいオトナ(つまり、父親や母親)から、言葉遣い・クセ・仕草・表情等など、実に多くのものを観察(看る&聴く)しながら学び取っている。これが「モデリング(観察学習)」と呼ばれるものだ。アメリカの社会心理学者/バンデュラさんの理論だが、顔かたちだけではなく、父母の話し方や仕草や表情が子どもに色濃く「伝染(遺伝ではないな)」しているケースに出会うと、「あっ、なるほどね〜」と思ってしまう。少しは「観られている&聴かれている」の意識をもって、父母としての役を演じたい。
そして、仕上げは「ゴミ捨て」である。「可燃物」と「不燃物」の週に二回、僕は必殺「ゴミ出し&ゴミ捨て」人と化す。とりわけわが町は、「不燃物」の分別にうるさく厳しい。「プラスチックごみ」「発泡スチロール」「ペットボトル」など、最初は面倒臭い事この上なかったが、今ではもう「プロ中のプロ」を自認している。
ふと気がつくと、娘(現在は大学1年生)から「ジジ」と呼ばれるようになっていた。「じじい!」では精神的にちょっとキツいが、「ジジ」なら何となく可愛くもあり(そんな名の黒猫が出てくる映画がなかった?)、言うにまかせてほったらかしている。
新年早々、自民党の一部議員から「幼稚園教育の義務化」が提案された。詳細は今後だろうが、この国の新たな教育政策が「キチンとした長期的展望をもつべき」事、そして、「オトナたちの都合や『その場しのぎ』で決定されない」事を、改めて願わずにいられない。
父母が責任を負うべき家庭教育、先生による学校教育、そして、大人や地域全体で支える社会教育のすべてに共通する基本は「やって見せる」だと私は思う。
わが子を水死事故で失った若い母親が、今度は二軒隣の男児を絞殺し、その遺体を道路脇に放置するという信じ難い、否、信じてはいけない事件が秋田県の田舎町で起きた。

当の本人に興味関心や学習意欲がなかったので僕は反対していたのだが、(あの頃はクリクリ坊主頭で可愛かった)長男タカシに、「エレクトーン」を習わせていた時期がある。確か、彼はまだ幼稚園児だった。
こどもと一緒に、あるいは、こどもの前で大のオトナが、それも、父親である僕が声を上げて泣いた一つの経験を書いたら、意外なところから反響があって驚いている。そう言われてみると確かに、「親子で泣いている」姿というのはほとんど見た事がないもんなぁ(笑)。
は、幼い頃からの親との喜怒哀楽(感情)の共有経験が乏しかったからではないのか。そう思うと、こどもと一緒に泣くというのも大事な「子育て」なんだろう。


